2012年10月11日木曜日

被災地の今は

さてさて、話しは北海道に旅立つちょっと手前に遡ります。
今回の旅行の目的のひとつは「被災地を再訪する」事でした。
東日本大震災から1年半が経ち、メディアでの露出も以前に比べ少なくなってきました。
被災地の現状はどうなっているんだろうか?
復興は進んでいるのだろうか?
そんな思いで訪れた各地を、写真とともにご紹介致します。




仙台から沿岸部を国道沿いに進んだ後、裏松島に入ると被害が顕著でした。
この2枚は野蒜海岸からの写真です。
一面雑草が生えている更地は、かつて海の家や民宿などで栄えていた場所です。
今は瓦礫の山になってしまっています。
写真にはないですが、ガードレールや橋の欄干が飴細工のようにグニャグニャに曲がり、
被害の凄まじさを生々しく語ってくれます。




こちら塩竈の中州地帯での印象的な写真。
塩竈市は川沿いの被害が大きく、この自由の女神の傷跡からすると8m以上は波が来たようです。
ここから女川地区までは更地と被害を受けたままの建物が多く、各地でお線香の香りと献花が捧げられている光景が非常に印象的でした。
また、女川地区沿岸部は瓦礫の仕分けでトラックが土ぼこりをあげて走っているだけで、完全に壊滅していました。
このあたりの地区では写真を撮るのも躊躇してしまい、記録に残せてはいません。


女川から三陸沖を北上すると、南三陸町に着きます。
この写真はかつての避難所のあった志津川中学校の高台から撮影しました。
かつての灰色の風景は、緑の更地に姿を変えていました。
そこに生活の場は少なく、ただ瓦礫が片付いただけに見えました。

南三陸町の旧防災庁舎跡です。一礼、合掌して写真に収めます。
ここはTVで何度も紹介されており、皆さんもご存知かと思います。
右下の僧侶が読経を捧げ、色んな人が入れ代わり立ち代わり訪れています。
自分には原爆ドームのようなメモリアルであり、墓標であるように感じました。


2011.4月


2012.9月

こちらは南三陸町最大の避難所として機能していた、「南三陸町ベイサイドアリーナ」です。
震災当初は遺体安置所として運用され、数日後に避難所として機能し、今は元のスポーツ振興施設としての役割に戻っていました。
周辺には志津川病院の臨時診療所や臨時町役場などが立てられ、復興の要になっているようです。



2011.4月

2012.9
ベイサイドアリーナの中に入ると、すぐ右手側にトレーニングルームがあります。
ここがかつての臨時救護所でしたが、今は2枚目のように本来の姿です。
かつてここで医療支援を行ったことが嘘のようでもあります。

ベイサイドアリーナの体育館からは、終始子供たちの歓声が聞こえていました。
付近には仮設商店街などでの市場なども開かれ、復興への意気込みが感じられました。
地域の傷跡は深く、回復にはかなりの時間がかかると思われます。
ただ、一歩一歩復興への道を歩き出していると言うことを実感しました。
(大輪 武司)


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